さっちゃんの雑記帳

病気、仕事、虐待の経験をだらだら書きます

人の話を聞くには体力が必要?

リワーク1週目を乗り越えた。

最初の2週間は慣れるまで週3日の日程なのだけれど、それでも1週目で想像以上に疲れてしまった。

ここに毎日記録できるかな、なんて思っていたけれど、甘かった…。

今週末、3連休でよかった。やっと体力を回復することができた。

 

リワークは、医師や看護師、作業療法士から講義を受けたり、認知行動療法のグループワークをしたり、盛りだくさんの内容だった。

 

充実していて、とってもやりがいはあるけれど、ちょっと肩に力が入りすぎたかな。

 

慣れない作業に順応したり、一度に多くの知らない人と話をしたり、

一つひとつは些細なことではあるけれど、金曜日には体がすっかり疲れ切ってしまった。

 

今まであまり自覚したことなかったけれど、この1週間でわかったことは、

今の私は、「人の話を聞くことで体力を消費してしまう」ということ。

 

休職し始めた頃はさすがに誰にも合わせる顔がなかったけれど、

元来、新しい友人を作ったり、知らない人と仲良くなるのはとても好きだし、

仕事でも、いろんな人との出会いにやりがいを感じていたところがあった。

 

そう思っていたんだけれど。

 

どうも、会う人それぞれに対して、自分のワーキングメモリを割きすぎていて、脳疲労していたんじゃないかな、と思うようになった。

 

適当に話を聞き流す、というのは失礼になるから、

ちゃんと目の前の人に集中しよう、話をひとつひとつ理解しよう、

ちゃんと聞こう…

 

多分、これで相当体力を使っていたみたいだ。

 

先週のリワークでも、同席した方とお話をしていて、

「話を聞いてくれて、とても話しやすい」と言ってもらえた。

そう言ってもらえて嬉しかったし、そこが自分のいいところだとも思っているけれど、

もしこれで疲れ果ててしまうんだとしたら、少し改善の余地があるかもしれない。

 

だからと言って、「適当に受け流す」というのは短絡的すぎるかな、とも思ってしまうし…

そこも含めて、リワークの中で解決策を探っていけたらいいな。

 

無理せず、sustainableな生き方を身に付けていきたいな。

 

 

 

まるでランドセルに教科書を詰めるように

明日からリワークがはじまる。


12月から始めたかったんだけれど、甲状腺中毒症になっちゃって、数値が安定するまで延期になっていた。


中毒症から甲状腺機能低下症になっちゃったけれど…

チラージンを再開してだいぶ体調も良くなって、先月末、主治医に開始したいと意思表示した。


実は休職して2ヶ月目に、障害者職業訓練センターが実施しているリワークの期間評価には参加したことがある。

当時は相当焦っていて、「半年以内に職場に戻らないと」と思っていた。

でも、担当カウンセラーに

「リワークはたった1ヶ月しか休まずに来るところではない、あと3ヶ月はちゃんと休みなさい」と追い返された。


そのあと、何度もリワークを始めようと、そのカウンセラーさんと面談を繰り返したけれど、少しずつその方とうまくいかなくなって。


センターのリワークではなく、病院のデイケアにしようと思って、

当時のクリニックからデイケアを実施している病院に転院した。


そこで新しい主治医に「あなたも、あなたの家族も、双極性かもしれないよ」と言われて、すごいショックを受けて…

たぶん、それで甲状腺中毒症を発症しちゃったんだと思う。


色々あったな。

今は新しい先生ともうまくやっているし、

日中に寝ちゃうこともないし、

今日も1万歩散歩して、まだ元気が残っている。


大丈夫。明日から、きっとまた前進できる。


リワークに向けて、ノートや筆記用具、ファイルを、カバンに詰めてみたりする。

まるで、真新しいランドセルが嬉しくて、明日からの新生活にときめいて、筆箱や教科書をとにかく詰めてしまうような、そんな気分に近い。


明日からは、また書ける内容が充実しそう。




小さな「嬉しい」に、ちゃんと向き合う

コンビニ端末で荷物の発送手続きをしていたら、

「すみません、助けてください」と声をかけられた。

 

コンビニに入った時に、入り口付近で立ち止まっていたおじさん。

英語で書かれたスマホのメモ画面を見せられて

 

「これ、どこでどうしたらいいんですか…」

とっても流暢で最初わからなかったけれど、状況を察するに、外国の方だった。

 

いきなりのことで最初戸惑ってしまったけれど、

画面にはシリアルナンバーがあって、チケット発券だとわかって、

一緒にあれこれ端末を操作して、無事レジで支払いができるところまでできた。

 

「ありがとうございます」と言われて、

「どういたしまして」と答えて、

 

たった一瞬の出来事だったけれど、とても嬉しかった。

 

別に特別なことをしたわけじゃないけれど、

今日、あのおじさんと会えてよかったな、と思いながら帰ってきた。

 

嬉しかったことって、一瞬で流れてしまって、

繰り返し思い出しがちなのは、嫌だったことや悲しかったことばかり。

 

だから、今日の小さな「嬉しい」に、ちゃんと向き合って、大切にしたいと思った。

 

ありふれているから「普通」でしょうか

気持ちが落ち込んでしまうので、テレビや新聞はしばらく見ないようにしているけれど、

 

それでも、視界に飛び込んでくるニュースはある。

 

ものすごく悲しいニュースだった。

悲しいよりもずっと深く、胸の奥を抉り取られるような苦しさがある。

その奥からどんどん憎しみが沸き起こる。

 

また、児童虐待で子供が亡くなってしまった。

大人の身勝手な都合で、感情で、理由で。

 

彼女は、きっとものすごく勇気を振り絞って、アンケートに書いたんだと思う。

渦中にいる人が助けを求めることがどれだけ辛いか、想像してもしきれないけれど、

「助けて」と必死に声をあげたのに、藁にもすがる思いだったろうに、

 

それを無碍にした大人がいる。

よりによって、(少なくとも名前だけは)教育現場のプロフェッショナルが。

 

「威圧的な態度に恐怖を感じて、屈してしまった」と、市教委は取材に答えたそうだ。

 

激しい言葉はここに書いても仕方がないけれど、

本当に許せない。許せない。許せない。

 

当人が、その恐怖に毎日晒されていると、なぜ思い至らなかったのか。

父親の態度に接して、どうして状況を察知することができなかったのか。

 

他にもいろんな不遇が重なってしまったように思う。

沖縄での児相の対応、長期休暇に不信感を持たなかった小学校、

全てのニュースを追えていないし、見るのも辛くて苦しいんだけれど、

 

何れにしても、「虐待」に対する危機感のなさに、本当に苦しくなる。

 

親が「しつけだ」と言えば、どんな対応も許されるんだろうか。

少なくとも、親が「見せろ」と言えば、子供のアンケートもおおっぴらにされることはわかった。

誰かの「一時しのぎ」で、一人の命が軽んじられたんだ。

どうやって責任を取るんだろうか。

 

虐待の通告件数は、年々増加傾向にあると、新聞の見出しになんども載っていた。

それだけ、表面化の可能性が上がったのは、歓迎するべきだとは思う。

 

でも、一方で、件数が増えたことによって、むしろ一件一件が軽んじられてはいないだろうか。

「また虐待だ」と、横流しにしている人たちが、行政も民間も関係なく、増えていっているような気がする。

 

ありふれているから、この程度はしつけレベルだから、よく聞く内容だから

「だから大したことない、普通のことだ」

と、なってしまっていないか。

 

子供にとって、親は絶対だ。

小学生ならなおさら、親は絶対的な権力を持つ存在に見えているだろう。

多少の暴力や威圧は、当人だって「しつけ」と捉えてしまっているかもしれない。

 

そんな中、彼女は「お父さんにぼう力を受けています」と、はっきり言ったのだ。

それが、一体どのくらい苛烈な虐待だったのか、とても想像できないけれど、

まさか、こんなはっきりとしたワードですら、

「子供の被害妄想」とでも、思ったんだろうか。

 

苦しい。今自分は何もできない状態で、自分のことで精一杯で、

助ける術も何もないけれど、

この怒りの感情だけは大切にしたい。

 

心より、ご冥福をお祈りします。

 

 

 

息をするように「疲れた」と言ってしまう自分を、受け流す

最近、なんの脈絡もないタイミングで、今までの失敗や、嫌なことを思い出してしまって、「疲れた…」と口走っていることに気づいた。

 

仕事での失敗、家族とのいざこざ、人間関係。

色々、思い出すと居心地の悪い気分になることが脳裏に浮かんでしまって、

どっとストレスを感じてしまう瞬間がある。

 

その度に、別に誰かが目の前にいるわけでもないのに、ため息交じりに「疲れた…」と言ってしまう。

声に出すことで自分の耳に繰り返し「疲れた」と言い聞かせてしまう。

 

良くないことだと思って、口にするたびにそんな自分が嫌になって、

言わないようにしないとな…と思っていた。

 

でも、どうだろう。

言わないように、言わないように、と思えば思うほど、むしろ「疲れた」と思ってしまう頻度が増してしまう気がしてきて、

 

 

以前、「ピンクの象」というものを教えてもらったことを思い出した。

ure.pia.co.jp

「ピンクの象を思い浮かべてはいけない」と言われると、ダメと言われているのに「ピンクの象」しか考えられなくなってしまう、というお話。

 

やめたい習慣を具体的に思い浮かべてしまうと、むしろ意識してしまって逆効果になる、といったところだろうか。

 

だから、今はその現象を受け流すべきなんだろうな、と思い至った。

「疲れたな」と言ってしまう自分を拒絶するのではなく、受け流す。

今はそういう思考に陥りやすいんだな、と、客観視する。

 

気にならなくなってきたら、きっとこの「疲れた」スパイラルからも、すっと離脱できるだろう。

そう信じて、あまり執着しないで、嫌な感情も流していこうと思った。

 

 

 

 

小学校の恩師からハガキが届いた

最近は年賀状をほとんど出さなくなったんだけれど

今年は5枚だけ、近しい人に向けて書いた。

そのうちの一人に、小学6年生の時の担任の先生がいる。

 

イラストが8割近くを占めるハガキは、一言書いたら空欄が埋まってしまう。

卒業してから年賀状のやり取りだけはしている先生に向けて、

今回は思い切って、「実は病気になりました」と書いて、送ってみた。

 

今日、そのお返事が家に届いた。

「日向川と鳥海山」という、自然いっぱいの写真が載ったポストカード。

宛名の隣のメッセージ欄にびっしり、言葉が綴られていた。

 

「心配しています」「無理が祟った?」

気遣いの言葉がたくさん並んでいた。

 

送った本人が言うのもなんだけれど、

年賀状なのにかなり不穏な内容を送ってしまったなあ、と少し反省(汗)

 

でも、素直に嬉しかった。

もう随分会っていないけれど、自分のことを覚えていてくれる人がいることに安心してしまって、

便箋5枚分くらい、最近の状況を書いて、ポストに投函してきた。

 

遠方に住む先生に心配だけかけて、迷惑かもしれない、

と、少し思ったけれど、

 

心のどこかで、「わかってほしい」と叫んでいる自分の気持ちに、少し寄り添えたかもしれない。

だから、手紙を書いてよかった。

 

黙っていても何も変わらない。

助けてほしい時に、「助けて」「話を聞いて」

と、声を上げられるようになるのが、密かな今年の目標だから、

 

これからも、言葉にして、声に出していこう。

頭の中が少し散らかっている

また今日も、どうにも心が上の空で、考えがまとまらない。

 

昨日の夜から今日にかけて、感情があっちへこっちへ、安定しなくて。

書きたいことはあるんだけれど、上手い答えが見つからない。

雑然とした部屋の中で、探し物が見つからない感じ。

どこにあるか見当はついているのに、なぜか出てこない時の腹ただしさに似ている。

 

明日、少し紙に書いて整理してみよう。

もやもやと逡巡するよりも、書き出して、吐き出したい。

 

整理した上で、一つ一つ、ここにまとめてみよう。

 

 

 

今日はここまで。また明日。