さっちゃんの雑記帳

病気、仕事、虐待の経験をだらだら書きます

病気になって、ゴミ屋敷を卒業しようと思った話

うつ病双極性障害)と診断されるまでは、散らかり放題の部屋に住んでいました。でも、休職中にいろんな雑念を振り払いたくて断捨離してからは、随分気持ちが楽になりました。

今回はゴミ屋敷脱出についてまとめてみました。

 

  1.  ゴミ屋敷に住んでいた頃
  2. ミニマリズムを知って、断捨離を決断した
  3. 嫌なことを思い出すものも思い切って捨てた
  4. 手放して変わったこと

 

 1.    ゴミ屋敷に住んでいた頃

うつ病と診断される前は、正直ゴミ屋敷に住んでいました。

もともと捨てられない性格で、100均で買ったリップやタッパーですら大事に取っていました。取っておくというよりは、捨てることに罪悪感があって、見えないところにぎゅうぎゅうに詰め込んで気をそらしてきました。

 部屋が散らかっていることは重々承知していたけれど、仕事が忙しいことを言い訳にして放置してました。でも、ヘトヘトになって帰宅するたびに雑然とする部屋を見てさらに気持ちが萎えていました。

洗濯したのかしてないのかわからない服に囲まれながらコンビニ飯を食べて、いつ買ったか分からない化粧品の溢れる浴室でシャワーを浴び、ベッドの上に何重にも積み上げられたものたちをかき分けて作ったわずかなスペースに体を滑り込ませて寝ていました。

働き始めてからのストレス発散は買い物しかなくて、安いカットソーやパンツを毎週買っては少しだけ満足してました。そんなことを繰り返すうちに、クローゼットは着ない服で開けるのも大変で、プラケースを買い足して詰め込み、あふれた服は外に出っぱなしの状態になっていきました。

休職してからは、足の踏み場もない部屋でろくに動けず、食べ物も買いに行けず、宅配の介護食を買ってお腹を満たしては布団の中で泣く生活をしていました。何も希望が持てませんでした。

 

 2.   ミニマリズムを知って、断捨離を決断した

ある日、病院の待合室にミニマリストの方の本があって、なんとなく手にとって読みました。

無駄なものが何もない、お気に入りのものだけに囲まれた空間。ものが少ないからこそいつでも掃除できて、常に清潔に過ごせる部屋を見て、目から鱗でした。こんな生活をしてみたい!と思いました。

それからはミニマリストのブログを読み漁って、図書館に通って片付け本を何冊も読みました。断捨離をする人の多くが、鬱屈した状況を打破したい一心で片付けを決意した人たちで、うつ病経験者の記事もありました。だんだん「もしかしたら部屋を綺麗にしたら、私も何か変わるかもしれない」と思うようになりました。

手始めに、明らかなゴミを捨てていきました。

擦り切れた靴下、大量のダイレクトメール、高校の頃に着ていた趣味の悪い服…。見つけるたびに「なんでこんなもの持ってるんだ」とびっくりしました。大きいサイズのゴミ袋いっぱい、全部で20袋くらいは捨てたと思います。

まだ使えるし…と思って捨てられなかったスチールラックやカラーボックス、実家から送りつけられた型落ちのテレビも手放しました。段ボールに入れたままにしていた大学や高校の頃のノート、一回も開いたことのない同窓会名簿や卒業アルバムも捨てました。

 

 3.   嫌なことを思い出すものも思い切って捨てた

捨てるのに勇気がいるものもありました。母から引越しの際に持たされたり、プレゼントされたものは「捨てたら何か言われるかもしれない」と戸惑いました。

でも正直いって、とても私の趣味には合わないものでした。プレゼントされた服は、真っ黒でラメやスパンコールがギラギラしてて、いつ着るんだ…って思うものばかり。それでも「これ、高かったんだから!」と言われて渡されたものを捨てるのは気が滅入りました。

そんなときにも、ミニマリストのブログに背中を押されました。「プレゼントだからといって持っている必要はない。自分が必要ないなら手放していい」と書いてあって、思い切ってフリマサイトに掲載しました。いくつか売れたときに「私のところで日の目を見ないよりずっといい」と吹っ切れました。

他にも、ボロボロの裁縫箱(なんと母の友人の結婚式の引き出物!)や昭和レトロすぎるお下がり、「便利だから!」と言われて送られた100均グッズまであって、どれも捨てました。

母のものが視界から消えていくと、想像以上に気分が晴れました。もしかしたら、こういったものにも気持ちが毒されていたのかもしれません。

 

 4.   手放して変わったこと

退職して社宅から出なきゃならなくなった時、初任給で買ったベッドをジモティーで手放しました。あるご夫婦が引き取りに来てくれたとき、「娘がこれから一人暮らしするんです。欲しがっていたデザインそのもので、とても喜んでいます」と言われて、すごく心が暖かくなりました。あのベッドには、ぜひ新しい持ち主の元で活躍して欲しいと思っています。

今は随分狭い部屋に住んでますが、ものを少なくしたことで収納にも余裕があり、部屋も掃除しやすくなりました。前の部屋よりもずっと好きな空間です。

 

部屋の乱れは心の乱れ。これからも気持ちが荒んだら瞑想のつもりで掃除片付けをしたいと思います。

 

鬱と診断されてから、退職までのあれこれ

「あなたはこの仕事はよした方がいい」

2019年7月初旬、復職判定面談の時に産業医に言われました。

 「双極性障害で、幼少期の虐待による複雑性PTSDも抱えている。ましてや橋本病の数値もかなり悪い。ストレス過多なこの業界は、あなたにとって一番避けるべき環境です」

 そう言われた瞬間に「ああ、私はやめるしかないんだ」と悟りました。

 

学生時代にバイトで就活費を捻出して、貯金が底をつく直前になんとか滑り込んだ会社でした。

憧れの仕事で「頑張ってのし上がってやるぞ」と気概を持って入社したものの、職務内容は過酷の一言で、体が耐えられませんでした。

若手は使い放題の一兵卒として、突然の出張や休日の呼び出し、夜明け前の出勤もざらでした。

業界としては避けられない働き方であることは覚悟していたものの、徐々に体が悲鳴をあげるようになって、頭が回らなくなって、疲労感と焦燥感で涙が止まらなくなって、ついに家から出られなくなりました。

鬱と診断されて時短勤務措置が出ましたが、周囲がバリバリと働く中で帰宅する自分が情けなく、役立たずで、存在意義がないと思うようになりました。

当時のチームリーダーに鬱であることを打ち明けたものの、「俺、鬱ってよくわからないんだよね〜」と一蹴されました。仕事中は、「元気そうだね、もう大丈夫なんでしょ」「いつから戻れそう?」と頻繁に声をかけられ、どんどん追い詰められていきました。「早く元気にならないと班の一員として認められなくなる。早く役に立てるようにならないと迷惑をかける」と何度も自分に言い聞かせて、奮い立たせようとしました。主治医の許可もないのに、産業医に掛け合って勤務時間を伸ばして、上限ギリギリまで残業をして遅れを取り戻そうとしました。

 

そんな中、人伝いに「『今班員が1人欠けてて、仕事が回らなくて大変だ』って、チームリーダーが言ってたよ」と聞きました。

頑張ってたはずなのに、チームの一員としてカウントされていなかった。そう思って青ざめました。

「早く、早く戻らないと、役に立たないと…」、そればかり考えて、上司面談でも産業医面談でも「もう大丈夫です、宿直勤務もできます、早く戻してください」と空元気で返事をするようになりました。

 

勤務制限が緩和されて、宿直勤務に復帰することが決まった翌日。仕事帰りに一通のメールが届きました。チームリーダーからでした。

「もう元気になったって聞きました。今までは体調不良だからという理由で見逃してあげていたけれど、これまでのミスについてはしっかり反省してもらうし、今後厳しく指導していきます」そういった内容でした。

 

パニックで過呼吸になりました。ホームに立っていた私は「ああ、こうやって線路に飛び込みたくなるんだな」と咄嗟に思いました。

翌朝、布団からどう頑張っても起き上がることができませんでした。任されていた電話業務を布団の中で必死にやったものの、死にたくて消えたくてたまらなくなって、兄に助けを求めました。2017年の年末でした。

 

それから丸2年経とうとしています。

休職中に、鬱ではなく双極性障害だとわかり、薬を取っ替え引っ替えして、なんとか自分に合う薬を見つけたのが2019年の5月。躁転をしたり、断薬の離脱症状や橋本病の急性憎悪で寝たきりになった期間もありました。

どう考えても、休職期限に間に合わないことはわかっていました。なんとか抗おうと、診断書を書き換えてもらったり、労組に掛け合ったり奔走しましたが、産業医の一言にすっかり打ちのめされてしまって、退職を決めました。

 

「あなたにはこの仕事は無理だ」と言われた時は、悔しくて、自分が情けなくて、家で泣き叫びました。これまで何度もどん底を経験したつもりだったけれど、まだ底があるなんて、と思いました。退職してしまって、転職できる体調でもなくて、「もうこれ以上頑張れない、生きていけない」って、泣き続けました。

 

でも。

退職して間も無く4ヶ月。体調も安定してきて、睡眠薬も卒業できた今は、退職したのも悪くなかったのかな、と思うようになりました。

あの産業医の言葉は、正直言って「お前主治医でもないのによくそんなズケズケと言ってくれたな」って今でも思いますが、はっきり言ってくれたのはよかったのかもしれません。

復職しても、またあの激務に耐えられる自信はありませんでした。体を壊し続けてもしがみつきたい仕事だったかと言われると、そうじゃないよなって思う自分がいます。

 

今は、新しい資格取得を目指して勉強をしています。合格率のかなり厳しい資格で、正直一発合格はできないかもしれません。それでも勉強を始めて「ああ、私は勉強するのが好きだったんだ」って気づいた時、私にもできることがあるんだと思って、とても嬉しくなりました。

退職して、無職で、貯金もいつまで持つかわからないけれど、好きなことに気づけた今は、ここ数年で一番幸せな時間を過ごせている気がします。

病気にならないに越したことはないけれど、ターニングポイントを与えてくれたという意味では、病気に感謝しておこうかなと思います。

改めて自己紹介を。病気、休職、虐待について。

ブログをのぞいていただき、ありがとうございます。

 

f:id:whom-in5526:20191005145730j:plain

先日、箱根の彫刻の森美術館に行きました。ここがいちばんのお気に入り。



 

Twitterを始めてから、少しずつ訪問してくださる方が増えていることに今更気づいたので汗、恥ずかしながら自己紹介をしたいと思います。

 

さっちゃんと申します。

東北の片田舎で生まれて、大学から東京に出てきました。

今は関東のどこかでひっそりと一人暮らしをしています。

 

高校、大学、新卒入社までとにかく全速力で走っていた最中、社会人2年目の春に「うつ病」と診断されました。

その年の冬まで、時短勤務をしながらなんとか仕事にしがみついていたものの、2017年の年末に一歩も外に出られなくなり、それから1年半休職しました。

今年の7月末までに復職を目指していましたが、体調回復が間に合わず、休職満了退職となりました。

鬱と診断されてから、橋本病(甲状腺機能低下症)、双極性気分障害と相次いで発覚し、今はそれぞれの薬を飲みながら生活しています。

 

どうして鬱になっちゃったんだろう

なんで休職することになっちゃったんだろう

 

なんとか原因を見つけたくて、何度もカウンセリングに通う中、「あなたはアダルトチルドレン(AC)です」と、臨床心理士に言われました。

 

言われて気付きました。

「そうか、私は虐待を受けていたんだ」と。

 

10歳の時に、父と母子との家庭内別居が始まりました。

父が居間に来る時は、父の生活圏を侵害しないように、出来るだけ息を潜めて、姿を見られないように自分の部屋に隠れる生活をしていました。

 

父が癇癪を起こした時は、私の部屋に力任せに入ってきて、部屋のものを全て階下に投げ落とされました。声を潜めて泣きながらかき集めた記憶があります。背中を繰り返し蹴られた時もありました。

部屋のドアノブがバカになってしまって、父が近くを通る時はドアを開けられないように全体重をかけて、息を殺してやり過ごすようになりました。

 

父だけでなく、母にも、髪の毛を掴み上げられて振り回されたり、蹴られたことが何度もありました。泣きすぎて吐いてしまった時も、「迷惑をかけるな」「虐待してると人様に知られたらどうするんだ、静かにしろ」と、散々怒鳴られました。

 

中学に上がった頃、兄が非行に走り、警察のお世話になることがありました。

父は見せしめに、私たち兄妹の前で兄の私物をかたっぱしに破壊しました。

兄も、自分の部屋の机をカッターで滅多斬りにしたり、壁をトンカチでぶち抜いたりして反抗しました。

 

私は、見ていることしかできませんでした。

結局兄は家出をして、それから丸4年くらい、連絡を取れなくなりました。

 

「兄の件は恥ずかしいことだから、絶対に誰にも言ってはいけない」「あんな偏差値の低い学校に行ったなんて知られてはいけない」と、いろんな方面で口止めをされました。

だから、家庭が破綻していることが他人様にバレないように、嘘に嘘を重ねて、一生懸命元気に振舞って生活しました。

 

兄が「粛清」されたのを見て、「両親が求める成績を出し続けないと、存在を消されるんだ」と思うようになりました。

生きていく為に、必死に成績を上げて、絶対に落とさないように、寝る間を惜しんで勉強しました。

 

なんとか父の眼鏡にかなう高校に合格して、家から遠かったこともあって一人暮らしを許されました。

「成績を落としたら、家に連れ戻される」

「大学に進学できなかったら、家賃を出してもらえなくなる」

食事を取る時間も惜しくて、ストレスでバカみたいなダイエットもして、体脂肪率が5%になるまで体を壊していきました。

 

そんな調子で入社した直後、兄が行方不明になりました。

警察に「最悪の事態を想定してください」と言われて、兄のアパートに行きました。

生きていたけれど、酒瓶だらけの部屋の真ん中に、首吊り縄が用意されていました。

 

私も兄も、本当に追い詰められていました。

なんとか取り繕って、元気な自分を維持して頑張ってきたけれど、ついに私も動けなくなってしまいました。

 

休職して、ACだと言われて、やっと気付きました。

 

そっか。自分がダメな子供だから、厳しく躾けられただけだと思っていたけれど、

結構苛烈な環境を乗り越えてきたんだな。

 

両親とは縁を切りました。電話もラインもブロックして、引越し先も退職したことも伝えていません。

逃げていいんだと気づくまでに随分時間がかかったけれど、やっと解放された気持ちです。

 

無職で、病気で、これからどうなるか全くわからないけれど。

フラッシュバックやトラウマとも付き合っていかなきゃならなくて、薬もたくさん飲まなきゃならなくて、うんざりするけれど。

 

これまでに比べたら、ずっと生きやすいのかもしれません。

 

やっと、こうやって吐き出せるくらいに回復できたのかなと、書きながら思いました。

ここまで読んでくれて、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

「普通」や「当たり前」は、自分の妄想かもしれない

 

 

もし私が「普通」だったら、今頃どんな毎日を送れていたんだろう。

時々、そういう思いに飲み込まれて、苦しくなる時がある。

 

 

もし、虐待を受けることなく、「普通」に仲のいい両親のもとで「当たり前」にすくすくと幼少期を過ごせたなら。

もし、実家を追われることなく「普通」に実家で高校生活を送って、受験生として応援してもらえたら。

もし、双極性障害や橋本病にならずに、「普通」の会社員として働き続けられていたら。

 

こういう感情にとらわれるようになったのは、時々周囲から聞く「普通」や「当たり前」に翻弄されてしまったからだと思う。

 

高校生の時、「さっちゃんの家は家族旅行しないの?」と、何かの弾みでクラスメイトに聞かれた。

私は、小学生の時にディズニーランドに行った、その一度だけしか家族旅行に行ったことがなかった。しかも、「もう二度と行かない」と親に言われるくらい、空気の悪い散々な旅行だった。

だから「そもそも家族旅行なんて、お金がかかるし、そう易々と行けるものじゃない」と、それが「普通」だと思うようにしていた。

 

だけど。

 

「え、かわいそう〜!うちは毎年キャンプとか行っているのに」と、驚かれた。

 

ショックだった。

 

きっと彼女は何の悪気もなかったんだろう。

でも「かわいそう」という言葉は、じわじわと、深く深く、私の心をえぐっていった。

 

家のこともそう。

「どこの家だって暴力の一つや二つくらいある。それがしつけというもんだ」と思っていて、DVという言葉とは無縁だと思っていた。

でも、父や母から受けるプレッシャーに対する恐怖に飲み込まれそうになって、意を決して友人に家族のことを話した。

だけど、「うちはそういう家庭じゃないし、殴られたり蹴られたりしたことないから、わからないんだよね」と、突き放されてしまった。

 

そうか。うちは「普通」じゃないから、わかってもらえないんだ。

そう思い始めて、「普通」じゃない自分が惨めで、だんだん周囲と距離を置くようになっていった。

 

トドメを刺されたのは、新卒で入社した直後だった。

当時の採用担当者で、私も信頼していた上司から

「この仕事をするには自信が必要だ。そのために必要な自己肯定感は、幼少期に暖かい家庭の中で育たないと絶対に得られない」と、はっきり目の前で言われた。

 

びっくりした。自分の人生を、全てひっくり返された気がした。

 

そうか。私は「普通」の暖かい家庭で育っていないから、この会社で働くにはみんなより努力が必要なんだ。バンカーからのスタートなんだ。

 

たくさん泣いた。けれど、それ以上に悔しかった。

「普通」じゃなかったら、爪弾きにされるんだろうか。

「お前にはこの仕事はできない」と言われている気がして、腹が立った。

 

「普通」じゃなくても、暴力にさらされながら過ごした幼少期があっても、

それでできないことがあるなんて言われたくない。

 

ただただ、がむしゃらに働いた。私なら、そんな「普通じゃないと無理」なんて考えをひっくり返してやる…。

 

 

気づいたら、病気になって、動けなくなっていた。

 

 

どうしてだろう。私は、私なりに、まっすぐ頑張ってきただけなのに。

「かわいそう」とか

「あなたは私とは違う」とか

「そんな家庭で育った人に仕事はできない」とか

そんな言葉を跳ね返そうと、限界を突破しようと、頑張ってきただけなのに。

 

どうして「普通」に生きていけないんだろう。

どうしてみんなのように「当たり前」な育ち方をできなかったんだろう。

 

 

そうやって苦しんできたんだけれど。

病気になって、会社をやめて、両親の子供であることをやめて、

最近やっと「普通なんて、私が勝手に作った理想像でしかないんじゃないか」と、気づき始めた。

 

誰かにとっての「普通」に、囚われていた。

その人が決めた「普通」のボーダーラインに引っかからない自分を責めて、追い詰めていた。

 

もう、そんな妄想に苦しめられなくていいんじゃないかな。

 

「普通」なんて、「当たり前」なんて、そんなわかりやすいパッケージで売られてなんかない。

誰かが決めた「当たり前」を買えない、って地団駄を踏んでいただけかもしれない。

 

そんなの、わざわざ私の時間を払って、買い戻す必要はないよね。

 

もう、手放そう。

私は、今の私のままで、生きていける。多分ね。

 

リワークを卒業して、新しいスタートラインに立った(ブログの再開)

昨日、半年間通ったリワーク(復職支援)を卒業しました。

 

本来なら、7月末の休職満了までに復職して、円満卒業をするつもりだったんだけど、

色々あって退職して、復職先がないまま、リワークの期限が来てしまいました。

 

退職を選んだ時は、「全部捨ててまっさらになろう」と思って、すごいスッキリした気分でいたんだけれど、

時間が経つうちに、「思い切りすぎたんじゃないか」とか、「みんなは復職先があるのに、わたしはどこにも行くところがない」とか、どんどん不安に飲み込まれてしまって、ここ最近はずっと情緒不安定でした。

 

でも、通所最終日の昨日、リワークメンバーのみんなからたくさん応援の言葉をもらいました。

「1人で抱え込みすぎないで」「ここにみんないるから、いつでも相談して」

「さっちゃんは危なっかしいから、心配してるんだよ」

 

みんなが、わたしのことを気にかけてくれていました。

また、「わたし1人でなんとかしないと」と思って、自分で自分を追い詰めていたけれど、

もう、ひとりじゃないんだ、と思ったら、少しだけ勇気が湧いてきました。

 

26歳、無職。

まだ体調が不安定で、転職活動もできないけれど、

9月から、また新しいスタートラインに立って、一歩ずつ前に進んでいきたいと思います。

 

ずいぶん長いこと放っておいていたこのブログも、また再開する気になれました。

 

未来の自分のために、1日1日の自分を記録していきたい。

そして、もしかしたらどこかの誰かが読んでくれた時に、「こんな人もいるんだな」って、思ってくれたら、嬉しいな。

 

 

 

 

「儘」ならない世の中で、ありの「儘」に生きたいけれど

儘(まま)

①思い通りであること

②成り行きに任せて、結果に頓着しないこと

 

国語辞典で調べたら、複数ある意味の中で、上記のふたつが並列してあった。

 

「ままならない世の中」とかで使う「まま」は、ワガママと同義の「まま」で、自分の思う通りに事が進む、という意味。

 

一方で、「あるがまま」の「まま」は、そのまんま、自然体である事を意味している。

 

同じ漢字を使うのかあ。

当たり前かもしれないけれど、なんだか不思議に感じた。

 

今日はDC(リワークデイケア)に通い始めて6週目、のはずなんだけれど、

朝にかけて猛威を振るった低気圧の影響か、頭痛がして布団から起き上がれなかった。

少し前の自分なら、それでも体に鞭打って仕事に行こうとしていたけれど、

今日はすんなり諦めてDCを休むことにした。

 

この病気になってから、

「自分の意志だけでは体はどうにもならない」とか、

「気持ちと体が一致しないこともあるんだ」ということは

少しずつ理解できるようにはなってきたと思う。

 

そう思っていた。

 

でも、今日、橋本病の経過で内科を受診したら、

検査結果は甲状腺機能低下症のままだった。

 

「まだ低いけれど、改善はしているよ」と、主治医には言われた。

 

ただ、「仕事はどうしているの?」と聞かれて、

「まだ休職していて、今はリワークに通っています、

無理をしなければ生活に支障はないです、

復職時には夜勤や急な呼び出しのない、定時出退勤のできる部署を希望するつもりです」

と答えて、自分が嫌になってしまった。

 

現状を、ありのまま受け入れて生きていけたら、こんな葛藤はないんだろう

起きた出来事を柔軟に受け止めて、

与えられた環境に適応して生きていけたら、悩んだりしないんだろう

 

でも、病院から帰りながら、

冷静でいよう、と思っている自分と、

どうしようもなく叫び出したい自分が、

うまくいかないことに癇癪玉を爆発させる子供のような自分が、

ぶつかり合って、

どうしたらいいかわからなかった。

 

私はずっとダンスをやってきた。

大学もバリバリの運動部に所属して、大会にもたくさん出た。

仕事は、はたから見たらすごくハードな業種だ。

辛いことも、向いてないこともたくさんあったけれど、

それでもやりがいを持って、取り組んできた。

 

「頑張る」ことが大好きだった。

できることはなんでもしたい、もっとやりたい、もっと動きたい、もっと、

 

でも。

そういう「傾向」が、自分を追い込んで、うつ病や橋本病を発症してしまったこともわかっている。

体に無理を強いて、強いて、強い続けてきたから、こうなったんだって、わかっている。

 

それでも、今までのやり方を、生き方を、

ある意味「否定」しなければいけないことに、葛藤がある。

 

気持ちに体がついてこないって、どうしてこんなにもストレスなんだろう。

もちろん、気持ちで体がどうにかなるんだったら、誰も病気になんかならないし、

それはわかっているんだけれど。

 

まだ、今の状態を、「ありのまま」受け入れるには、時間がかかりそう。

 

 

 

リワークの経過と、アポトーシスについて思ったこと

リワークデイケア3週目。

本来なら、今週から週5で参加予定だったけれど、先週体調を崩して週5参加は見送ることになった。

一応内科にも行ったら、「甲状腺中毒症の経過で、ホルモン値が以前よりも落ちている可能性があるから、無理しないように」と諭された。


どうも、アクセルを踏みっぱなしにしてしまう傾向にある。がんばり始めたらうまく休めなくなって、ふと気づいたらすでにぐったりしてしまっている感じ。


休み休み、焦らず取り組もう…。


今日は休みだったから、朝から洗濯に掃除に買い物に、溜まっていた家事を片付けた。


最近はリワークで色んな方と話をできているので、あまり気にならなくなっていたし、うつから回復してきているのもあるんだろうけれど、


それでもときどき、仕事のことや、これまでのことが色んなきっかけで脳裏をよぎって、気持ちが塞いでしまう。

今日の買い物帰りにも、ちょっとしたきっかけで仕事の記憶が蘇ってしまった。


そんなときはだいたいいつも「もう私はだめだ」とか、「生きている価値がない」とか、極端な結論に走りそうになる。

今日もそう思ってしまって、凹みそうになったけれど、

ふと、「アポトーシス」という言葉を思い出して、少し考え方が変わった。


アポトーシスとは、「プログラムされた細胞死」のこと。

よく聞くのは、胎児のときには手指の間にあった水かきが、アポトーシスによってなくなる、という話。

ほかに、おたまじゃくしがカエルになるときに、尻尾がなくなるのも、アポトーシスによる、らしい。


人間やカエルを構成する細胞が、その主人のために、積極的に死ぬ=自殺するのだ。


それが、体の中で常に起こっているらしいのだ。


それを今日思い出して、

「そっか、そうしたら、昨日の自分と、今日の自分とでは、中身は少しずつ違っているんだ」

「昨日の自分はちょっとだけ死んでいて、そして今日の自分は少しだけ生まれ変わっているんだ」


と思えた。


言ってみりゃ至極当たり前のことかもしれない。当たり前なんだけれど。

でも、これまでは、自分の過去というものはどうしようもなく積み重なっていって、その増え続ける重みをずっと背負っていかなければならないんだ、と思っていて、


それは本当に苦しくて、捨てたくて、

捨てるためには、生きることを諦めなければならないのかな、と思っていたんだ。


でも、実はそんなことないのかもしれない。

だって、昨日の自分も、去年の自分も、10年前の自分も、

今の自分とは中身が違うんだ。

アポトーシスで、少しずつ「昔のわたし」は死んでいって、少しずつ「新しいわたし」に入れ替わっているんだ。


そう思ったら、なんだか肩の荷がおりた気がした。


あえて自殺なんかしなくても、毎日数えきれないほどの細胞がわたしのために死んでくれているんだから、宿主(?)のわたしは、せめてイキイキと生活しなきゃな。