さっちゃんの雑記帳

病気、仕事、虐待の経験をだらだら書きます

リワークの経過と、アポトーシスについて思ったこと

リワークデイケア3週目。

本来なら、今週から週5で参加予定だったけれど、先週体調を崩して週5参加は見送ることになった。

一応内科にも行ったら、「甲状腺中毒症の経過で、ホルモン値が以前よりも落ちている可能性があるから、無理しないように」と諭された。


どうも、アクセルを踏みっぱなしにしてしまう傾向にある。がんばり始めたらうまく休めなくなって、ふと気づいたらすでにぐったりしてしまっている感じ。


休み休み、焦らず取り組もう…。


今日は休みだったから、朝から洗濯に掃除に買い物に、溜まっていた家事を片付けた。


最近はリワークで色んな方と話をできているので、あまり気にならなくなっていたし、うつから回復してきているのもあるんだろうけれど、


それでもときどき、仕事のことや、これまでのことが色んなきっかけで脳裏をよぎって、気持ちが塞いでしまう。

今日の買い物帰りにも、ちょっとしたきっかけで仕事の記憶が蘇ってしまった。


そんなときはだいたいいつも「もう私はだめだ」とか、「生きている価値がない」とか、極端な結論に走りそうになる。

今日もそう思ってしまって、凹みそうになったけれど、

ふと、「アポトーシス」という言葉を思い出して、少し考え方が変わった。


アポトーシスとは、「プログラムされた細胞死」のこと。

よく聞くのは、胎児のときには手指の間にあった水かきが、アポトーシスによってなくなる、という話。

ほかに、おたまじゃくしがカエルになるときに、尻尾がなくなるのも、アポトーシスによる、らしい。


人間やカエルを構成する細胞が、その主人のために、積極的に死ぬ=自殺するのだ。


それが、体の中で常に起こっているらしいのだ。


それを今日思い出して、

「そっか、そうしたら、昨日の自分と、今日の自分とでは、中身は少しずつ違っているんだ」

「昨日の自分はちょっとだけ死んでいて、そして今日の自分は少しだけ生まれ変わっているんだ」


と思えた。


言ってみりゃ至極当たり前のことかもしれない。当たり前なんだけれど。

でも、これまでは、自分の過去というものはどうしようもなく積み重なっていって、その増え続ける重みをずっと背負っていかなければならないんだ、と思っていて、


それは本当に苦しくて、捨てたくて、

捨てるためには、生きることを諦めなければならないのかな、と思っていたんだ。


でも、実はそんなことないのかもしれない。

だって、昨日の自分も、去年の自分も、10年前の自分も、

今の自分とは中身が違うんだ。

アポトーシスで、少しずつ「昔のわたし」は死んでいって、少しずつ「新しいわたし」に入れ替わっているんだ。


そう思ったら、なんだか肩の荷がおりた気がした。


あえて自殺なんかしなくても、毎日数えきれないほどの細胞がわたしのために死んでくれているんだから、宿主(?)のわたしは、せめてイキイキと生活しなきゃな。